マレーシアで生まれて、5歳の時にオーストラリア・メルボルンに移民してそこで育てられました。両親の兄弟は6〜8人ずついるらしくて、全部まとめたらサッカーチームを作れるという話を聞いたけど、私が知っている親戚は母側の妹(叔母)しかないです。自分のお爺さん、おばあさん、は知らなかったし、親戚などは道に通っても絶対わからないです。私は知っていた親族は自分の母、父、兄だけでした。
マレーシアの事が分からなくて、メルボルンの事しか知らない、日本に来るまで英語しか話せませんでした。自分はオーストラリア人という事は疑った事もそれ以外考えた事なかったけど、日本に来てからは自分がアジア系だけどオーストラリア人だという説明が必要という事を経験する事になりました。現在島で住んでいているのでさらにややこしくなりました。この島の人にとっては橋の向こう側=ほぼ海外なので、そうすると私の存在は宇宙人になるのかな?
なぜ日本に来たか?
正直にあんまり理由はなかったけど、その時その時に決めたことがここまで流れてきます。メルボルンのRMITファッション大学を卒業してちょうどのタイミングで高校時代の友達から日本旅行に誘われた。大学後の何やるかのプランがなかったから、日本に旅行ついでにインターンができるかなって考えて、英語が話せるファッションブランドを調べて、見つけたからいきなり電話をしてみた。インターンとして働いてもいいかどうかを聞いてみた。それは2008年12月でした。
初めて海外で住む
2週間の日本旅行が終わった後、友達とさよならをして私だけ日本に残って2009年1月からビザが切れるまで日曜日以外、朝から夜までインターンとしてそのブランドで働いていた。オーストラリアみたいに仕事の時間がきっちり決まっているではなくて、何時に帰れる事際も分からなかった。むしろ日本語0%だったので言われても理解できなかったし。とにかく作業がいいところまで終わったら帰るという習慣だったので、だいたい夜の11時ごろ、早かったら夜10時に帰ることだった。私インターンでお金はもらわなかったから一番最初に帰る人になったのに。でも初めて違う国に住んでいてて(記憶では)、日本人と同じように仕事もして、しかも好きな事ファッションをやっていて毎日はワクワクして楽しかった!
そのデザイナーが表参道に家があって、滞在中は部屋を借りてそこに住んでいたけど、トモヤはいつも表参道に住んでいた事にびっくりする。日本の事は当時本当に知らなかったし、表参道はお金持ちしか住んでない事も知らなかった。キノクニヤ以外のスーパーはなく、日本のスーパーは高いなあと思いながら、毎週の食べ物に困っていた。その時日本人はみんな細いと思った理由は食べ物がバカ高いからだと思っていました。その家では、ライスを無料で用意してくれてたから、100円ローソンのお好み焼きを大量に作ってそのライスと一緒に食べていた。インターン先のスタジオではいつも関西人って言われた。
日本にいる3ヶ月は刺激的だったので、メルボルンに帰ることは本当に悲しくなりました。メルボルンに帰った後にすぐ日本に戻るチケットとビザを取りました。4ヶ月ぐらいバイトをたっぷりして、とりあえず何ヶ月分かの生活費を貯めようと思っていました。そのお金がなくなったら、後で考えよう。計画も全くなかったし、日本で仕事も見つかってなかったし、日本語も全く話せなかったけどメルボルンにいる理由が無かったから、もうちょっと日本に住んでみたいと思っていただけでした。その時2009年7月で、そこから色々あったけど、気づいたら今年2026年はまだ日本にいる!
日本人の働き方を経験する
日本に来て最初の1年半は英語の先生として働きながら日本語を自分で勉強しようとしていたけどなかなか難しかった。お金がなくて日本語学校も行けずに、100円で参加できるボランティアがやっている日本語レッスンに参加したり、ランゲージエクスチェンジを参加したりしました。ひらがな、カタカナが読めるようになって、漢字はちょっとだけ読めて、簡単で遅い会話くらいできた。
ある時に紹介させていただいたファッションコースに1年間日本語学校もついてると聞いて、ファッションも日本語も両方ができることにワクワクをして奨学金で参加させて頂いた。そのコースは1年だけでしたけど、ほとんど寝てなかったので多分2年ぐらいな動くをした。朝は日本語学校、午後はニューヨークファッションウィークで発表するためのコレクションを作ること。夜は英語のレッスンをしたりして、食べる時間や寝る時間はなくなって、1ヶ月で10kg痩せることになった。メルボルンのファッション大学の時に、私張り切っていて休みなしコレクションをずっと作っていたので、(休んだほうがいいよ)と言われた。日本の働き方は問題ないと思いましたが、この1年だけのファッションコースで日本の我慢と努力は本当に見せられた。この国で逆に(もうちょっと寝ないほうがいいかも)と言われた。これ以降寝ないとまじで死ぬと思った。その1年ずっと日本語を毎日喋って、NYFWにも発表する機会も頂いて、洋服作り中心の人生だったから本当によかったです。終わった時には日本語レベルは中級くらいになって、大体話せるようになった。
智哉に出会う
その後あるファッションブランドに就職してみて、そこでトモヤに出会った。実は彼が面接をしてくれた人でした。せっかく雇ってくれたのにそのブランドで4日間だけ働いただけで、その後すぐに英語の先生のALTとして働く事になったので智哉ともう一回会えると思わなかった。あるハロウィンの次の朝、始発の電車の新宿駅で顔を緑に塗った男性に追いかけられた。それがトモヤだった。めっちゃ偶然だった。新宿駅でトモヤがちょうどタクシーでを降りて、私がその前をちょうど通って追いかけられた。その時からずっと一緒になって結局結婚をした。ずっと飽きないで一緒にいれる人は初めてだった。言語も、育ち方も違うのに今まで会った人の中で一番コミュニケーションがとれる。本当にその時から1日も離れず、ずっと一緒にいてやりたい事と作りたい物などの話をずっとしている。
英語の仕事が終わったら家でこっそり自分のコレクションを作ってた。コレクションが完成した後は、発表しない事は持ったないと思ったから軽い気持ちで合同展示会で発表をしたら、奇跡的に大きいセレクトショップにバイイングされて日本全国に置かれる事に。自分がデザインをして作った服を色々な人が着てくれて、大切にしてくれるのが夢でした。実はその時もうそろそろ日本を出て違う国に行こうかなと考え始めたところだったけど、ここでファッションブランドができたからこの国に住みたいと思っていた。
しばらく一人でブランドを続けていたけど、パターン、資料、メール、工場の電話やりとりは全て日本語でやりました。1年のファッションコースで日本語を中級まであげてくれて、その後ブランドを経営することで上級になった。毎日ずっとピンチ状態で日本語使いながら、調べながら、覚えながら、必死で日本語力は自然と上がることになった。3年目からはトモヤは仕事を辞めて一緒にブランドをやるということになってめちゃめちゃ楽になった。
心が黒くなった
しばらく2人でブランドをやっていて気づいたら2人はファッション業界が嫌いになってしまった。1年2回コレクションを作って、展示会、量産の繰り返しがだんだん意味を感じなくなりました。自分がデザインした服を好きになってくれて着てくれて買ってくれた人にも直接会わなかったし、全てバイヤーさんを通してセレクトショップで売っていたので、ただ洋服を作るだけの面になって機会的に感じてしまった。面白い方法でコレクションを発表する余裕もなかったのでファッションシステムの社畜に感じはじめた。
2人で完全にブランドで生活をしていたので、コレクションの売上にプレッシャーを感じ続けていた。一回でも売らなかったら生活ができなくなって、それよりも次のコレクションを作るお金がなくなるので段々必死になっていました。元々の夢はファッションブランドで生活できる事だけでしたが、気付いたことはある程度余裕がないと満足できる服は作れない。売上と生活費を考えなくてもよくて、自由に服作りだけを集中する事が新しい夢になった。
ストレスが半端ない状態で自分たちの中の黒い気持ちなどを出すために目的のないデトックス旅に出た。その時に淡路島に辿り着いて引っ越してきたストーリーはすでに知っているかもしれませんが、知らない人はこちらで読めます↓

